小学生の頃は通知表と呼ばれていた紙を学校の先生から受け取っていたけどあまり良くない成績の中で、もっとも出来が悪いのは音楽だった。
リコーダーも下手、ピアニカなんか練習してもツバでベチョベチョ、ちっとも上手くならない。
そんなボキでも顔にニキビが出てくる頃には友人とアコスティックギターを抱えフォークディオを組んで唄っていた。中学の先輩でも有る現在の相棒アントニオはこの頃からギターが上手かったけど、ボキは音痴丸出しチューニングも出来なかった。
でも、その頃からマイナーコードのもの悲しい音が好きで「山崎ハコさん」や「森田童子さん」なんかを聴いて訳が解らないままに人生について考え込む子供だったな~。
それは時代性もたぶんある訳で、1970年代から80年代に変わる頃は大きく時代が変わって行った様な気がする。流行歌もフォークソングのもの悲しい唄からサザンオールスターズの様な明るくイケイケ乗り乗りの曲が多くなり、物心付いた時から読んでいた漫画にも大きく変化が現れてくる。
男一匹ガキ大将から嗚呼、花の応援団やトイレット博士へ。
これは代表的な例として上げているけど当時を回想するのに当てはまる漫画ではないかな?
男一匹ガキ大将はガキ大将のサクセスストーリーでギャグもオババくらいであんまりふざけていない。
しかし、その後に流行る嗚呼、花の応援団はリアルな中にもギャグが存在していてブラックジョークなる言葉が一人歩きし始める頃。
イルカさんにも子供が生まれ、なごり雪のメロディーも聴こえなくなったリーゼント頭のボキはキャロルやクールスを聴き始めDEEP PURPLEのリフが頭の中で鳴りはじめる。
アメリカングラフティーやジェームスディーン、マックイーンの映画に胸踊り、日本とアメリカの違いを理解しはじめたあの頃、音楽が大きく変わりはじめた。
シンセサイザーや電子ピアノに電子ドラム。機械音がピコピコしはじめ流行に敏感な友人増永はY,M,Oのレコードを持って遊びに来る様になる。
スネークマンショーのレコードもこの頃かな? ギャグ満載の作りに、リアルタイムだったペンキ屋の親方には腹を抱えて笑った。
夜の徘徊にカセットテープが登場して、爆音の中にアラベスクの曲がヘビーローテーションだった先輩の車。当時のヤンキーはキャロルや映画アメリカングラフティーの影響でツイストが踊れるロケンロールナンバーが流行っていて足元も踵に鉄ビシを打ちつけたチョーカー(先が尖ったサイドジップブーツ)で周りを威圧していた。
そして映画「サタデーナイトフィバー」が封切りになるや、ツイストが得意な先輩は白色のスーツに身を包みチョーカーから履き替えたエナメルシューズでステップを刻み踊っている。
地元にもDISCOが出来たけどお気に入りは熊本のスーパースタジオだったな~。
高校の教室でもラスプーチンでステップを踏む女子が集まっていたり、ラジカセを中央に踊っていた。
ちょっと前に流行ったパラパラと一緒で、皆で同じ踊りをするのが好きな人には良いね。
ボキが通っていた高校はロックミュージシャンを多く排出していて、中学生の頃バンドの練習に連れて行ってもらった練習場にはその高校の生パイが多く出入りしていて卒業後は京都へ行くのが常だった。
かっこよかったな~ カワサキRS750にノーヘルでギターを背負い紫色の長髪をなびかせて走る先輩、迷わず大牟田南高校へ進学。自宅にも近かったしね。
でも卒業後はなぜ、京都? とその自分思っていた。後で解ったんだけど、高校の大先輩に「塩塚伸二さん」(WestRoadBluseBandのリーダー)が居て京都には大牟田人会なるものも存在していたらしい。
その頃の先輩にはアースシェイカーの西田さんや米米クラブのドラマーの人、BONGERSのギターアントニオ竹山なんかが有名になっていった。
当時の大牟田は人も多く、市民会館とかで大学生主催のロックコンサートが有っていてツエッペリンやバットフィンガーなんかのコピーを演奏するバンドが多かったな~。
そんな高校生活も終わるとボキの中の流行もサーフィンが出てきて、サーフトリップに出かける為の音楽や海に入る前に聴く音楽がR&Bの曲になる。
ダンスクラシックなるジャンルが今有るけどその辺りねだいたい。
堤さんという先輩が引率していた気がする。ライオネル リッチィーやアースウインドーファイヤー、スティービーワンダー等のブラックミュージックから同じブラックミュージックのレゲエへ。
当時の大牟田ではサーフィンに熱を上げる同世代の仲間が集まり「O,P,C」なるクラブを作っていて、オリジナルメンバー用のTシャツのデザインしたのがボキの初オリジナルTシャツ。(オリジナルステッカーは高校生の時に作っていたけど。)
そのO,P,Cの溜まり場がグリーンカンテラなるトロピカルパブ。(1980年代初め頃に流行ったサーフ系のトロピカルカクテルなんかが売りの飲み屋。)
映画フットルースが流行ってからはブレークダンスをやったり、ボブマレーの日本公演でレゲエに感化されたり、映画ビックウェーブの映像にウナサレタリと、O,P,Cの溜まり場となり数々の伝説が生まれた。
その頃に出かけた野外ライブで印象的だったのは福岡の”小戸ヨットハーバー”で行なわれたサンハウス、子供バンド、サザンオールスターズ、サードワールドが出演したイベント。雨が降って寒くなったのでウエットスーツを着て聴いていた様な?そんな気がするな~。
レゲエミュージックはボブマレーなんかのクラシックより80年代後半に流行ったマキシープリストなんかの英国系レゲエが思い出深い。何度かライブにも行ったしね。
その頃にはLARIATなる古着屋を立ち上げていて、カセットで聞く音楽にも変化が出てきた。
誰から貰ったか「THE BAND ラストワルツ」を聴きながら朝起きのが日課になっていたあの頃、ボブディランやクラプトンなんかを聴いてC,C,Rに夢中だった。
時はバブル経済に走り出していたけど、ボキの流行は70’s ROCK。
リアルタイムでダイアンストレイツやジョンクーガーそれにBruce SpringsteenがMTVで流れていたのを良く観ていた。
もっとロックっぽいのは無いのか?と、模索していた頃に境公孝(通称キミやん)さんと仲良くなる。
元々地元のサーフィンを始めたパイオニア世代で以前から知っていた。
後輩で車屋をやっているトモがグリーンランドでイベントをするのでフリーマーケットで出店していた時にカセットで流していたC,C,Rに引っ掛かり「今度レコード聴きにこんけん。」と、誘われ出向いたキミやんの自宅にはJBLのスピーカーが”デン”と置いてあり、壁一面はレコードで埋め尽くされている。
その部屋に後で「境音楽教室」と、いう名称を付けてO,P,Cの仲間と集うようになりレコードコレクターの世界に引きずり込まれた。
その時分はレコードからC,Dへのメディアが変わる頃で、ボキは手軽なカセットテープを良く買っていてタイマーズやボ ガンボスもカセットで持っていた。
境音楽教室で教わるレコードはマニアックな音源が多く、憶えているミュージシャンから書き出すと「オールマンブラザーズバンド、レナードスキナード、フレディーキング、アールキング、デルバートマクリントン、ダグザム、ピートカー、カウボーイ、デラニー&ボニー、ルアンバートン、トニージョーホワイトなどなどアメリカ南部のブルーズから派生したロックなどが多かった。
レコードコレクター熱が高まった頃は各レコード屋さんの店先に中古レコードが二束三文で並べてあった頃で、元々宝物探しが好きな性格なので聴きまくったな~あれこれ。
気になったジャケットは買ってみる、気になったミュージシャンは参加しているだけで聴いてみる、気になったプロデゥーサーも聴いてみる、挙句の果てには気になったレーベルは聴いてみる、と深みにはまってゆく時分が、、、。
時々海外へ仕入れに出かけていたので出かける先でもレコード漁り、時々一緒に行っていた山田君などは困っていたなスリフトストアで時間が掛かるもんだから。
古着の仕入れにニューオリンズへ向ったのはデットストックのシューズなんかを捜している時期だったけど、街中心街のフレンチクゥーターで最初に発見したのは中古レコード屋さん。
店内に入るとカッコイイリズムが流れている。
当時ファンクバンドWARのハーピスト”リーオスカー”さんのアルバムが大好きで良く聴いていたんだけど、普通のファンクとはちょっと何かが違う。
思わず店員さんに聞いてみた。
それは、その年にC,Dとなって再販されていた”ワイルドマグノイヤーズ”。
これにもハマッタね。
グリグリ感がたまらなく一時期はニューオリンズファンクばかり聴いていて憧れのニューオリンズヘリテージ&ミュージックフェスティバルへは1994年頃だったかな出かけて観た。
境音楽教室の先生と生徒健ちゃん、ボキそれにニューヨークからセイキちゃん達が合流して遊びまわった。
フェスでは色々なライブへ行ったけどもっとも印象深かったのは”アラントゥーサン先生とD,r JHON先生、それにタジマハール先生による故プロフェッサーロングヘアー大先生の思い出話のステージ。
この人がニューオリンズファンクを生み出した。と、云っていた様な。
そしてフェスへ行く前からチェックしていたスタジアムでの"THE NAVILLE BROTHERS" "THE BAND" "ALLMAN BROTHERS BAND"のジョイントコンサートへ。
フラフラチャンでした。
この頃は国内でも様々なミュージシャンのライブへ行ったな~。ステービーワンダー、レイチャールス、アースウインドゥファイヤー、イーグルス、レナードスキナード、ライクーダー、デビットリンドレー、リーオスカー、CSN、プライマルスクリームス、ボブスキャグス、レニークビッツ、エリッククラプトン、ジョージハリスン、ジャクソンブラウン、バディーガイ、PHISH、思い出せない程たくさん出かけたし、Neil YoungのライブへはL,Aまで聴きに行った。
1990年代のアメリカ音楽シーンは70年代に活躍していた人が帰ってきてライブツアーをやっていたのでリアルタイムではなかったけどレコードで聴く曲を生でも聴けた時期で、今では考えられないメンバーでの演奏も聴けたな~。
そんな時期にタマタマジャケットのイラストが良くて買った”HOME GROWN”なるオムニバスレコードがボキの中でヒットしてしまった。
ロングボードデビューしていた為にハワイイへの憧れが増して行き1970年代に録音されているカントリーコンフォードやオロマナ、カジメロブラザーズ、マカハソンズ、ギャビーパヒヌイ、などのハワイイアンミュージシャンのレコードを聴き古いサーフィン雑誌を眺めていた。
そこには忘れていたサーフィンをアートとして取り上げる雑誌編集者が居て、懐かしくも新鮮なイメージに溢れていた。
後でじ~やんから聴いたけど、ボキは題名にピンと来て買ったHOME GROWNなるレコードは1970年代にハワイイのラジオ局が新人ミュージシャンの登竜門的に作ったアルバムでハワイイアンルネサンスなる言葉も生んだ程の影響をハワイイアンミュージック界に与えたんだとか。
だからね、90年代のハワイイアンミュージシャンが集まって録音していたベストセラーアルバム「HAWAIIAN STYLE BAND」には70年代の香りが強かった。
日本でもその後ちょこっと流行ったような? ウクレレのオオタさんをゴンチチのお二人と聴いたりしたのは有田の何処かだったり。
ハワイイアンソングで思い出深いのはやっぱりオロマナかな。
もの悲しいメロディーが好きなボキの好みピッタリのディオ、激動の時代にサーフィンとスーベニール漁りへ出かけていた90年代の終わり頃にアロハタワーでライブを聴きながらマッタリしていたらあの声がして来た。
コンビは解散していたけど白人の人の方が歌っていたんだ、サプライズとはこんな時の事おもわず涙が。
そういえばカウアイ島のハナレイビーチにエントリーする横にミッドセンチョリーのカックイイ家が有って、誰かが「CSNのナッシュの家だよ。」と教えてくれた夕暮れにライクーダーのライブを告げるフラッグを見かけた。
残念ながらもう終わっていたスケジュールが書いてあったけど。
(ギャビーへの憧れでライクーダーも参加しているアルバム。ライクーダー先生はネイティブな音楽が好きらしく、フラーコヒメノスさんや沖縄のチャンプルースの一員でも録音している。もちろん他にもたくさん)
常夏の島ハワイイ。
ボキ達日本人とも関わりが深いけど、1960年代のヒッピーカルチャー全盛期からヒッピーがコミューンを作っていた島でも有る。ジミヘンもコンサートしているし、様々なアーティストがライブを行なっている。
そんな島だからクラシックなハワイイアンと70’s ROCKが融合してハワイイアンルネッサンスへと繋がるのか。そういえば初めて訪れた1985年頃に流行っていたのはジャワイアンだったな~。世界的に流行していたレゲエのリズムがハワイイアンと融合して楽しめた。
そんなこんなでコレクションしているレコードも70’sハワイイアンが多くなったけど、季節に関係なく聴くと落ち着くんだよね。その内ギターも練習してレパートリーに加えたいな。
そうやって海外へ出かける度に強くなる日本人という自覚。
その自覚が日本人の唄への興味が強くなっていったな~、レコード集めをしている時に聴いてみた1960年代後半からの流れ。
1962年生まれのボキは、生家が学生下宿をやっていた影響で子供の頃からマセテイタ。
幼い記憶の中には家族団らんとかより、三島由紀夫さんの立てこもり事件や浅間山荘事件など当時の有明高専生(生家の近所に有る学校)と一緒に見ていたテレビ番組や学生の兄ちゃん達がギター片手に歌っていた唄が多い。
何時も遊び相手がいなければ学生の兄ちゃんの部屋に遊びに行き、週刊誌を見て興奮しまくっていた。
この時代を知っている人は股間の前に林檎を持ったヌードポスターを憶えているでしょう。
そんなガキ時分の思い出と重なる音楽への旅へ出かけてみると面白かったな~。
楽器や録音機器の発達が絡み、日本人のロックの夜明けへと。
まず出足は「久保田麻琴と夕焼け楽団」のC,Dを先輩が店長を勤める中古レコード屋さんで進められた。
聴いてみてビックリ、当時はまっていたTONY JHO WHITEみたいな南部くさいスワンプロックな仕上がりでニューオリンズサウンド邦楽「バンバンバン(ムュシュかまやつの作品」をかっこよくやっているし、ギターを弾いて曲を作っていた藤田洋麻さんに興味を持った。(誰か知りませんか、藤田洋麻さんのその後)
久保田麻琴と夕焼け楽団のハワイイ録音版を聴き、細野さんのハッピーエンドやソロになってからのアルバム、キャラメル・ママ時代の録音版などなど聴きまくった時期に、一人だけコレクターの本などにも紹介されているけどレコードを見ないミュージシャン居た。
それはキャラメル・ママがバックを勤めた日本サイケデリックロックの名盤と紹介してあった「回帰線 南正人の世界」や「南正人ファースト」だ。 無かったな~捜しているときは。 今だったらヤフオクで常に有るけど。
そんな邦楽ロックを語る上では邦楽ブルーズの勉強もしなければ何も解らない。
それくらい60~70年代のロックはブルーズと接点が大きかった。
だってROCKを語る上で欠かせないのは英国人のブルーズメン”ジョンメイオール”の様に、60年代末から流行していくロックバンドのほとんどがBLUESを土台にしているからね。
日本の70年代にヤマハ楽器が神戸でやっていたアマチュアバンドコンテスト「88 ROCK DAY」のオムニバスアルバムもその頃手に入れた。
キミやんからWEST ROAD BLUES BANDのレコードを聴かされたのもこの頃。
それでWEST ROAD BLUES BANDがゲスト出演しているから買ったようなもんで、でも聴いてみて驚いた。演奏技術は高いしオリジナルティーが強いバンドがゴロゴロしている。
ブルーズロックに取り組んでいるバンドやジャズ、ファンクをやっているバンドなんかも居てカッコイイ。
特に良かったのがオオガミルリコさん。初アルバムではバンド名だったけど、その後にバンドは解散してソロで数枚出していた。
関西ブルーズ系のバックミュージシャンが脇を固めた素晴らしい曲の数々、有名なボロの曲「大阪で生まれた女」も最初に録音したのも彼女だった事をシングルレコードを買って知る。